私は文化論が苦手。多くの国に住んで、複数の言語を話すのだから、文化について語れて当然、と思う人もいるかもしれない。
もちろん、ある国の習慣や風習についての知識や経験は豊富にあるし、ちょっとした面白エピソードにも事欠かないとは思う。国籍問わず様々な国に友人がいるし、それはとてもありがたくて誇らしいと思っている。
でも、大抵友人と会ったときに話す文化のテーマには、その国籍の人またはそこに付随するグループの人々をその文化で一まとめにくくる作業がちょっとばかり伴う気がする。
それがなんだか、息苦しい。
マクロとミクロの世界は別なんだからと思っていても、
なんだか、苦しい。
十人十色、という言葉が頭の中でリピートしだす。警報アラートみたい。
もしじゃあその国にいろんな人がいるけどね、って前提のもと話が進んだら、どうかなと考える。それでもやっぱり息苦しさがある。
その息苦しさが一体どこから来るのか、考えてみた。
おそらく、直感的に、そして経験的に、何となくその会話が行き着く先が、ポジティブなものではない気がしてしまうから、というのはあると思う。
もちろん人それぞれの関わり方があると思うけれど、自分にとって住んだ国は、自分の人生の時間を過ごさせてもらった大切な場所。
好きな部分も嫌いな部分もあるけれど、全部ひっくるめて自分の一部になっていると思う。人生80年だとして、10年間一つの国に住んだとしたら、単純計算で自分の人格形成の8分の1くらいには良くも悪くも影響あるだろうし、2年しか住んでなくても自分の考えを変えるような大きな出来事があれば、当然大切な場所になる。
なので、簡単に言うと、
その国をけなされることが・・辛い。
のだと思う。
笑い者にされるのも、辛い。
住んだ国が多ければ多いほど、自然とけなされる回数が増えて、辛い。
とはいえ自分だって一つの国の好きな部分や嫌いな部分もちゃんとあるし、それは自分の個人的な経験に基づいているので仕方のないことではあると頭ではわかっているし、批判的な観点で見なければいけない政治問題や経済政策があるのも理解している。
でも、それって国が嫌いってことなのかな?どっちかの国が絶対おかしいって自信を持って判断できること?
と、複雑になりすぎた思考の後、ぼーっとした頭で考えて見る。
海外にいると、自国が嫌いだという人も沢山見かける。もちろん居づらい場所を出て新天地を探すことはその人にとって大事な事。私もヨーロッパやアジアやアメリカの嫌なところだって20個くらい余裕で言えるし、客観的に見ていいところと悪いところだって言えると思う。日本についても同じ。海の向こうにいるからこそ気づくことも沢山あり、逆カルチャーショックを受けることもある。
でも何かをけなし続ける負の気持ちって、聞いていても純粋に辛いものだなあと感じる。その気持ちを持ち続けている人の方が辛いのかもしれないけれど・・。
私にとっても、
日本をけなされるのは辛い。
でもヨーロッパをけなされるのも辛い。
だからって中国をけなされるのも胸が痛むし、
アジアの事を見下されるのも違うって思うし、
アメリカ人のこと固定観念で考えないでっていつも思う。
住めば住むほど、関われば関わるほど、
いろんなことが自分の一部になっていって
無関心ではいられなくなる。
大人になって両親のいいところも悪いところも客観的に見られるようになったけれど、他人に両親をけなされると改めて辛い、というような感じかしら。
だから、多分、文化的は話はこれからも、ずっと苦手だと思う。