言葉というのはどこの国の言語にとっても
とても大切なコミュニケーションツール。
言葉がなかったかつて昔には、
ジェスチャーやモノを使って情報を伝えていたし、
そこまで複雑な感情を伝えられるということもなかったはず。
言葉によって、生まれることができた複雑な感情というのもたくさんあります。
生まれるというよりは、落ちるところにストンと落ちるような、
感情にぴったりと当てはまる言葉を見つけてもらった時から
感情というのは人々に理解されていくのだと思います。
そういう意味で、言葉というのはとても大事。
そして、言葉に敏感になれるということもハイレベルなスキル。
というのは、
人の気持ちを汲み取ってあげたり
自分のちょっとした心の奥の気持ちを伝えてあげたり
お互いの誤解を解こうとする上手な言い回しが見つかったり
できるからです。
ただ、言葉への敏感さが行き過ぎると、「神経質になる」人が出てきます。
「言葉尻をとらえる」人、というのがそのタイプ。
言葉に敏感なあまり、相手が発する様々な言葉から情報を最大限に引き出そうとするあまり、相手が意図してない感情まで勝手に解釈したり、「考えすぎ」たりします。
たとえ母国語同士のコミュニケーションでも。
なぜこんなことが起こるかというと、
必ず誰しもが言葉のチョイスにそこまで敏感ではないからだと思います。
外国語を学んでいると、
言葉に敏感な人と、そうでない人というのがわりと顕著に現れる気がします。
外国語を学ぶ過程は、他人が発した言語を見様見真似で真似していくうちに、意味やニュアンスや文脈を捉え、自分が発することができるレベルにまでもっていく段階があります。
画一的な単語の意味は分かっても、ニュアンスやどんな文脈で使うかを理解できない外国人の人はたくさんいます。
また、一つのことを表現するのでも、もっと気の利いた言い回しはたくさんあるけれど、一つの淡々とした言い方しか知らない、という人もいます。
そんな時、コミュニケーションは細部にわたって浸透はしづらい。
でも「推測してあげる」ことはできます。こんなことが言いたかったのかな?こういう意味かな?
そんなときに自分のJudgement(=判断)が大いに入るので、誤解も生じやすいですが、人となりと文脈から助けてあげられることもあります。
この作業は、「言葉足らずだけど、この人とのコミュニケーションを円滑にしたい」という助け合いの気持ちから行われるので、
大抵の場合、自分の殻から一歩出て、相手の気持ちに立って
相手の気持ちを尊重しながら、こうかな、ああかな、と考えてあげる努力やステップを踏むので、
ポジティブな判断や中立的な解釈となる気がします。
一方で、「言葉に神経質すぎる」人は、
伝え方があまり上手ではない人のちょっとした言い方や単語を捉えて
それを過大解釈したり、執拗に責めたり、関係ない方向に会話をもっていくことがあります。
それは、多分、
「その人の口から発せられた」という文脈や人柄を無視して
自分過去に経験したその単語の使い方や、勝手に自分だけが知ってる言葉の意味だけに執着するからなのではないかなと思うことがよくあります。
たいてい、他人と誤解が生まれがちなときは言葉尻に神経質になりすぎている時って多いですよね。
「言葉に敏感になる」のはハイスキルですが、自分の殻からにこもったまま相手を判断して「言葉尻に神経質になる」のは、あまりハイスキルではなさそうです。
敏感と神経質の差は大きい、と感じるのであります。
#ふわっとエッセイ