ステイホーム時間を生かしてハーバード大学のオンラインコースを受講している。
これがまた、とても面白いのである。
Phyton人工知能のイントロダクションのコースで、Pythonを使ってどのように検索や機械学習をかけていくかということを噛み砕いて、とってもわかりやすく説明してくれている。
新しい単語が出たら大スクリーンに表示して定義づけしてくれるし、各事象を実際の例を使って表示してくれる。
人工知能とはなんぞやくらいは今の時代分かっている人も多いでしょうが、実際にどんなふうに動かしているのかまでは知らない人も多いはず。その世界観がわかるには理系に行くしかないと思っていたけれど、文系の自分にもとてもわかりやすい。
ハーバード大学のコースをわかりやすいなんていってると軽々しく聞こえるかもしれないが、簡単だという意味ではなくて、良質なコースという感じである。
学べることはたくさんあって、コース内容はここでは割愛しますが、人工知能のプログラミングを単純に学ぶということ以上に得られているものがある気がする。
そのコースをもとに突然明日からPythonのプログラミングをするわけではないけれど、とにかく頭の体操に良いのである。
面白くて引き込まれてしまう時もあれば、ボーッと聞いてても何か頭に差し込む概念がある。
結局は「知能を作る」ということに関して、人間の学びの過程と似たり寄ったりであるところが共感できるのかもしれない。
「こうやって覚えさせるのか」
とか
「人間にもこういうところあるよね」
とか
「こんなふうにカテゴリー化して表現できるんだ」
とか。
そんなこんなでコースを受けていたある日。
友人との会話の中で、少し分かり合えない部分が生じた。
普段は頭も柔らかく柔軟な友人が、頭では理解しているもののどうしても染み込みが悪く行動を変えてくれない場面があった。どうやら、彼は心の奥底で『あまり努力しても結果変わらないよ』と信じているようなのである。私にはその努力の差がどうしても肝心なものに思える。でもそこの機微が伝わらない。具体例をもとに何度説明してもあまりピンときていないようである。
そこで何を思ったか自分でも無意識に、彼の状態をサイコロと確率の例で説明をし始めた。
「あなたはサイコロを振った際にランダムに起こりうる結果の確率をそのまま受け入れすぎている」
と。
今書いてみても、はにゃ?というような説明なのだが、つまりは、
「物事をそのまま受け入れすぎ。変わらないって諦めすぎ。」と言いたかったのである。
完全にハーバード大学のエッセンスのおかげ(?)的な発言である。
そして
「でもその確率は、あなたが ”だいたいこんなものだ” と信じて受け入れている固定の確率の割合であって、本来なら私は努力次第でその割合を変えられると信じている。だから努力に意味があると思う」
と言ってみた。
読んでいる方はもはや何がなんだかわからないであろうが、
要約するとつまりは
「私は努力次第で結果を変えられると思うから努力したい。あなたは何も変わらないと思いすぎ」
という意味であります。
どう考えたって、こっちの表現の方が100倍わかりやすい気がするけど、わざわざサイコロに登場してもらった。ハーバード風に。
そうするとである。あんなにピンときてなかった友人が「なるほど」と言い出した。
そして、「主観確率と客観確率だね」と調べ始めた。
客観確率とはWikipediaによると
「世の中に存在する頻度や傾向性など、主観とは独立に存在するものとしての確率」
主観確率は「人間が考える主観的な信念あるいは信頼の度合い」
であるという。
それを理解して友人は「わかった、その自分の割合を変えればいいのか」と言う。
そうです、私が言いたかったのはまさにこれ。
まあ、ちょっと違うけど、ほぼこれ。
というか、これで理解していただけるならこれでいい。
・・・でも、最初の言い方よりさらに難しい複雑な表現になっている気もしますが、こんなに抽象化して初めて分かり合えるってどういうことなんでしょうか。
友人は納得。私は安堵と困惑。
一応丸くおさまったということであろうか。
AI時代のコミュニケーションは、AIを使わない人間同士の会話でもこんなに数学寄りになるのね、と身を以て体験した。その分野について学ぶ人が増えているので、そこで使われている概念を使う方がより伝わりやすいんですね。きっと。
ハーバード大学のエッセンスありがとう。
・・・でもたまには、人間同士の会話は文学的な情緒ある表現で会話したい、
という欲求があることにも同時に気づいた私であります。
#ふわっとエッセイ