外国の人と話している時に、「何人である」ということから会話を始めることがよくある。「どこから来たの?」という風に聞き始め、相手の国の文化について、礼儀的に触れたりお世辞を言ったりすることも多い。
もちろん相手を知るということは大事なことであり、相手がどういう人であるかを知ってから会話をしようという段取りは良いことだと思う。
ドイツでは、この定義づけから入る会話が他国よりも頻度が高いように思える。「ドイツでは・・」と言いながら自国の現象について説明し、「日本ではこうだよね・・」と誘導しながら相手の話を聞く。
対比されるために引き合いに出されることが多く、類似性や共感よりも「違い」に焦点を置いた会話がなされる。
これは、国と国との違いに関してだけではなく、学校の違い、会社の違い、自分と他人などの日常生活に関するテーマにも用いられるので、とりわけ国籍や文化だけに重きを置いた発想ではなく、ドイツ社会に組み込まれている人であっても随所で感じることができる会話の手法であると思う。
この会話の手法によって、個人個人が常に「自分とあなたは違う人間」ということを間接的に対比させているので、自分と他人を明確に区別してくれ、個人主義を上手に機能させるにはとても良い方法である。こういう日常生活の中の会話があるから個人主義がきちんと保たれて、なあなあになることもないのでは、と思ったりもする。
ただ、人によって感じ方は十人十色。
留学生や海外転職を機に外国人として働いている人にとっては、なんだかしょっちゅう「線引き」されているよう感じるというのも頷けるところではある。
国際結婚を機にドイツに移住した日本人の友人は、なんだか10年経ってもずっと「外国人感」が抜けないのだという。
また、アメリカ人の友人は、この会話手法に違和感を感じるらしい。多国籍のアメリカで、そればかりやっていたら、時間もないし、変な誤解も生まれてしまうのかもしれない。「今ここにいるアメリカ」という共通点に集中しようという意識もあるようだ。
自分もドイツにいるとやってしまっていたことの会話手法ではあるものの、他国に住んだおかげもあってすっかり抜けてきた感もある。
そして、さらには共感をベースとするアジア諸国や日本の会話に切り替えながら触れているとなんだか違和感も生じてくる。
共感を出しながら話す話し方と、違いを出しながら話す話し方。
両方の話し方を混ぜていると、距離感の取り方が変な人になってしまうので、気をつけている。たまに間違って(?)、アジア人に線引きトークして、ドイツ人に共感話をしていることもある。
自分がいつもするような会話の切り口とは違った会話の手法を試みるって、結構楽しいし、脳を使うんですね。
「外国語を話すと、別人になる」というタイプの人は、こういう会話の切り口を言語とともに切り替えるタイプの人が多い気がします。
そんなこんなで気をつけていたら、最近面倒になってしまったようで、「違いを指摘し合うの面倒だけど、同じ部分にも気づかないでいてほしいなあ〜」なんて考えながら人と接するようになってしまっていた。
今日も面倒くさがりな自分と向き合う日々です。
#ふわっとエッセイ